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  • 中西 紹一

オンラインワークショップのデザイン〜⑤その労働は商品か、それとも使命か


オンライン系の話がネット上では盛んですが、さすがに食傷気味なので、とりあえずオンラインの可能性の是非については、今回を最後にしようと思っています。もし続きが必要であれば、ぜひ「つなぐLab」で行いましょう。

つい数日前、フランスの文化人類学者・レヴィ=ストロースの日本講演を書籍化した『構造・神話・労働』(2008.みすず書房)を読む機会がありました。久々に読んだということもあり多くの刺激をうけたのですが、今の状況を問うには絶好の教材になると考え、皆さんに紹介したいと思います。同時に、せっかくなのでオンラインワークショップや、広くオンラインワークそのものの可能性と限界を、レヴィ=ストロースの視点から皆さんに問いかけてみたいと思います。

『構造・神話・労働』は、レヴィ=ストロースが日本に初来日(1977年)した際の講演内容やシンポジウムでの発言をまとめた名著で、かつ、なぜ彼が親日家になったのかがよくわかる本です。その中で、彼は日本の伝統産業に従事する職人(以下「職人」と総称)の労働スタイル・労働観の特徴を「ポイエーシス」というキーワードで説明しています。

「ポイエーシス」とは、誤解を恐れずきわめて平たく説明すると『無秩序な状態のものに秩序をもたらす創造的活動システム』と呼ばれるものです。文学で例えるなら詩のような作品であり、もっと身近なものなら料理もそうでしょう。人の手が加わっていない、無秩序な状態の言葉や食材に秩序を与え、それを創造的産物にまで高めていく行為が「ポイエーシス」であり、レヴィ=ストロースはこれを日本の職人の労働観の特徴だと指摘しています。「ポイエーシス」に関する彼のアプローチは、以下の文章を読めばよくわかると思います。

…ヴェルナン(レヴィ=ストロースの同僚)の論じた第二点は、人間の活動には二つの型があって、両者のあいだには本質的な区別が存在するという指摘であります。すなわち、プラークシスは行為をする人間が自分自身の目的のために事物を使用する行為であり、ポイエーシスは事物をそれ自体の目的のため、あるいはそれを使用する人の目的のために作り出す行為であります。したがって、プラークシスに該当するのは、たとえば、哲学者が自分の学説の正しさを聴衆に説得する行為とか、政治家が市民に演説する行為などです。しかし、この語は職人の仕事には絶対に当てはめることができません。そのような仕事はポイエーシスになるのです。なぜなら、職人が物を作り出す際には、自分自身に属する目的のためではなく、作るべき物の本質によってあらかじめ決定されている目的のため、あるいは使用する人の必要、欲求に応じて、その行為を行うからであります。(p90)

…今回の旅行中(おそらく北陸だと想定されますが)に私の心を把えたもう一つの経験をお話しましょう。金箔師の仕事場を見学した時のことです。その人はまず、金箔を作り出すためのきわめて伝統的な方法を説明してくれました。紙のあいだに金箔をはさんで打ち延ばすのですが、その紙の製法には多くの秘法があるそうです。その人が説明に使った用語をそのままフランス語に訳してもらったのですが、それによれば、あるきまった方法で紙を処理し、何回か使ったあとでは、紙が自ら金箔をおしひろげうるような状態になります。つまり、紙に一種の力があるというのです。

ところが、金箔を打ちのばすというもっとも重要な作業を見せていただくと、そこで使われているのは、きわめて新しい型のエアハンマーであったのです。このような道具を仕事に積極的に取り入れている職人が、一方では伝統的方法によって手仕事で処理した紙を用いている。私としては、たいそう不思議に思った次第であります。(p92-93)



レヴィ=ストロースが驚いた金箔師の例は、モノの本質的価値(金を金箔にすること)をあぶり出すために、職人は最先端技術も伝統的手法も「何でも」取り入れている、という点を知っていただきたかったために紹介しました。最先端も伝統も、両方取り入れることが重要なのではなく、本質的価値をあぶり出すためには、最先端も伝統も全てを取り入れる(伝統のみに固執しない)という職人の労働観を知っていただきたかったからです。

レヴィ=ストロースが日本を旅し、その後に行われた日本の研究者たちとのシンポジウムでは、この議論がさらに深められました。ここで提起された問いは、そもそも日本には伝統的歴史的に「商品としての労働」が存在していたのか?というものです。レヴィ=ストロースが指摘した日本の職人の労働観には、産業革命以降、西欧社会に一般化された「商品としての労働」はあてはまらず、作るべきモノの本質をあぶり出す「使命としての労働」が日本の職人の労働観の特徴かもしれない、とシンポジウムでは議論が深耕されました。

今、なぜレヴィ=ストロースの事例を出したかというと、最近政府が盛んに提唱している『新しい生活様式』、例えばリモートワークやオンライン○○などは、ポイエーシス的世界=使命としての労働を可能にしてくれるのか?という疑問があるからです。

現代社会の労働は総じてプラークシス(人間が自分自身の目的のために事物を使用する)的であり、それゆえ技術もプラークシスを志向し、結果として持続可能性を放置してきたと思えてなりません。私はプラークシス的なものよりも、その対極に位置する、レヴィ=ストロースが日本の職人の労働観に見いだしたポイエーシス的世界、つまりモノの本質的価値をあぶり出し、それに秩序を与えることのできる労働(日本の職人に見られる労働特性)にこそ、未来を感じてしまうのです。

レヴィ=ストロースの視点とそれ以降に深められた議論を見ると、「プラークシス=商品としての労働」と「ポイエーシス=使命としての労働」という軸が存在し、そもそも日本の労働観は後者により近い、ということが考えられます。自分もそう感じていますし、そうありたいと考えています。しかし、自分がオンラインでワークショップを行い、それを企業に対して「ソリューションです」などと提示する場合、私の取っている姿勢は「プラークシス=商品としての労働」の提供となります。ここに、根本的な自己矛盾を感じてしまうのです。

コロナ禍の中、懸命に社会を支えようとするエッセンシャルワーカーや医療関係者は、まさに使命として働いており、リモートの世界はそこには存在しません。「リモートで働きましょう」というメッセージにリアリティを感じてしまうのであれは、もしかすると、私たちの労働のほぼ全てが「商品としての労働」になってしまった、ということを意味しているのかもしれません。

長くなりましたが、自分は別にリモートワークを否定するつもりはありません。簡単な打合せなどは、本当にリモートにしたほうがいいですし、打合せにかかる長距離通勤などはしたくもありません。デジタル系の業界であれば、リモートであってもそれは「使命としての労働」に値するものになるかもしれません。ただ、自分のような、ワークショップをビジネスの核に据えた人間からすると、ワークショップ的世界が徐々に「商品としての労働」にシフトしていくという現実を、自分は今回のコロナ禍で否応なく叩きつけられた気がするのです。



商品としての労働は悪くない。生きていくためには必要です。

ただ、ビジネスにおけるワークショップの価値を高めたい、という使命感を持っていた自分としては、下駄を外された感覚です。

もしかしたら、新しいポイエーシスの世界に踏み出す必要があるのかもしれない。そう感じているし、そうありたいとも思っています。



皆さんの意見を、もっと聞きたいです。

皆さんが考えるオンラインのワークショップは、ビジネスでもポイエーシス的世界を実現できますか?



そう語りかけるレヴィ=ストロースは、やっぱり偉大です。



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